紅茶コラム

Vol.01 茶碗にハンドルはいつごろから?

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ご存じの通り、ヨーロッパにおけるイギリスの陶磁器産業はオランダ(デルフト)、ドイツ(マイセン)やフランス(セーブル)、さらにはオーストリア(ウイーン)などよりもはるかに遅れてスタートした。

イギリスでは、まず1740年代の後半より「チェルシー」に窯業が興りボウ、ダードー、ウースターなどが最盛期を迎え、染め付けはもとより、先発のマイセンなどのように日本の柿右衛門(色絵)様式や伊万里様式の写しの焼成もはじまった。初期のものは当然デザインをハンドペイント(手描き)したもので生産量も多くはなかった。そのうちに、素焼きの生地にデザインを焼き付ける「転写」(てんしゃ)の技術が開発されて、デザインもますます多様化していくと共に、食器の大量生産が徐々に行われるようになっていった。

最初のうち、王侯貴族の茶会で使用される中国製の小型の茶碗は、我々が今日でも慣れ親しんでいる緑茶の茶碗と同じくハンドル(取っ手)がなく、英語で「ティーボウル(Tea-bowl)」と呼ばれていた。しかし、ティーが次第に普及していくにつれて、お茶会の席では優雅に"膝の上に受け皿にのせたティーボウルを持って上品な会話をしながら、塊になっていて溶けにくい砂糖をスプーンでかき混ぜる必要が多くなってきた"ために、1750年頃以降にはコーヒーカップと同様に、ティーボウルにもハンドルをつけて売られるようになっていった。今日の「ティーカップ/ソーサー」(碗皿の組)の誕生である。

しかし実際には1800年に入ってからも"ハンドル無しのティーボウル"は頑固に多くの人達に使い続けられていたらしい。その理由としてはハンドル無しのティーボウルこそが「フォーマルなアフターディナー・ティにふさわしいものである」との考えと、そして、ホステス(茶席の女主人)としては「客人に小振りのボウルでティーを何杯もお代わりして楽しんでもらいたい」との願いも強くあったらしい。

しかし、輸入茶の値段が下がり、少なくとも裕福階級に限られたとしても、より多くの人達が欲しいだけのティーを飲めるようになっていくと、一度のティーの席での飲用量が増えるとそれだけ茶碗のサイズが(当然、ティーポットのサイズも)大きくなっていく。

そのうち、朝食にもエールなどに変わってティーが定番となるにつれて、より大型の茶碗が広く愛用される様になっていく。そして、こうした大振りの茶碗は "朝食用"としての位置付けがなされ「レス・フォーマルな機会」(フォーマルと呼べないような機会)にしばしば使用される様になった。

一方で"ハンドル"(取っ手)といえばアラブ人達の飲み物である「コーヒー用のカップ」には、相当早い時点でハンドルがつけられていた。ただし、このティーボウルにハンドルを付けるという発想は、たぶん「マグ」(Mugs)からきたものと考える人達もいる。彼等の主張によると、古くからイギリス人達は、彼等の国民飲料であった「エール」(ビール)やホットワインなどを黒皮のジャグ、やマグ(いずれもハンドルつき)に注いで飲んでいた。だから少なくとも新興・中産階級以下の人達の選好としては、中国のモデルを東洋趣味そのもので模倣したりするのではなく、西洋における「茶道具」のモデルやデザインを、自分たちの創意と工夫で多種多様なものに発展させて、独自の文化を生み出していったのだ、というのである。

18世紀の後半から19世紀にかけて、上流階級の社交の手段として定着したイギリスの紅茶文化が、産業革命、そして商業革命などによって多数輩出した新興専門職・中産階級へと普及し定着していったが、丁度こうした時期にウースターやニューホールなどで生産され好評であった"スリーピースもののアンティーク現物"(受け皿1枚とハンドル付きのコーヒー・カップ、それにハンドル無しのティーボウルのセット)を手にしてみると、やはり彼等は「東洋の文化への憧れの象徴」として、長年にわたりハンドル無しの茶碗を使うこと自体に意義を見出していたのではないか、と考えさせられる。

ちなみに、「セットとして受け皿一枚」というのは、1受け皿1枚でティーコーヒー兼用」という合理主義の精神がそこに見えるし、それは当時の陶磁器製品がまだまだ一般的にはとても貴重で高価であった証拠ではなかろうか。

(『荒木文庫』より)

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